No.184 ハンセン病による視覚障害者

新聞の連載記事がきっかけで、3月2日、都内東村山市にあるハンセン病資料館に行ってきました。「高山勝介作陶展」鑑賞のためです。高山さんの視力は両目とも0.01〜0.02だそうです。手も見せてくださいました。不自由な目と手で土を捏ね、ロクロを回し、こんな素晴らしい作品ができるものかと感動しました。

初めて伺いましたが、行ってみて初めてわかることがあります。この高山さんのように、ハンセン病の後遺症で視覚障害になられた方がたくさんいました。昭和30年には多磨盲人会が発足し、会員は159名にものぼりました。手指の感覚のない盲の方には、本来盲人のための文字である点字を読むことができないのです。

やがて、唇か舌先で読むことを考えつきました。盲人会が発足して間もない頃、点字講習会が開かれました。講習生は、繰り返し繰り返し点字を舐めました。舌先ににじむ血で、紙面を染めながら、何日も何日も習得に努めました。しかし、大部分の人は落後し、改めて絶望を味わう結果になったということです。

その後、日本点字図書館から録音テープ無料の許可が下りたり、日本盲人テープライブラリーが開設されたりしました。昭和46年には、テープライブラリーに対し、朗読奉仕者の申し込みが殺到。朗読会も定期的に開かれました。

盲人会の活動が活発化し、ハーモニカバンドが結成。園内ばかりではなく、外でも演奏を披露し、喝采を浴びました。しかし年々、会員数がへるばかり。高齢化が進み、亡くなる人が増えたということです。平成16年には、会員数が、46名となりました。なんといっても現在、平均年齢が84歳です。高山さんが、「今では、介護士に頼んでの、対面朗読のようなものでしょうか」とおっしゃっていました。

資料館の中にある図書室には、ハンセン病関連の図書資料、療養所入所者発行の文学作品や機関誌等が並んでいます。職員の方のお話では、「点字愛生」などの貴重な点字資料を広く社会に伝えるため、また後世に遺すために墨字化への取り組みをスタートさせるそうです。

ところで、ハンセン病になった人たちの隔離を定めた「らい予防法」がなくなって15年。自由になったけれど、帰る家を無くし、今もって本名を名乗れない人が、全国の施設に暮しています。こういう視覚障害者をはじめ、みなさんに、今私たちは、何ができるのでしょうか。新聞の連載記事の最後にこう記してありました。「今なら会える人がいる。まだ間に合う。みなさんも話を聴きにでかけませんか」と。

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